境内案内

摂社・末社

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ご神徳
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三宝荒神社 ご祭神
ご神徳
奥津日子神・奥津比賣神・火産霊神
火と台所の守り神
市杵島姫神社 ご祭神
ご神徳
市杵島姫命・大物主神
産業開発・交通、海上運輸安全
皇大神社 ご祭神
ご神徳
天照皇大神・猿田彦神
家内安全・家業発展

 ↓境内のスライド写真です↓



篠山神社について 
 篠山神社は、この難波の青物立売市場の公認に尽力し、難波の発展に貢献した大坂代官篠山十兵衛景義の遺徳を顕彰するため、明治十三年十二月二十六日創建されたものである。また、その碑には、【世の人のあふくもたかき功こそ 巌とともに朽ちせざりけれ】と詠まれ、その裏には【夫れこの地菜蔬の市があるは正徳にはじまり文化になる。蓋し百物を貿販し各々推場(売買を監督)有り、妄りに創むることをゆるさざるなり。此の地の父老相受け、相継ぎ扼に遭遇す楢ほ能く、積年を惜しまず嘆訴する。篠山十兵衛君代官となり、此の挙を翼賛するところ。乃ち其の請を容れる村民、父母の如く仰ぎ、追慕し今に至る。然れば、既に己ぐる八十余年、君の遺蹟、将に煙滅せんとす、故に有志相議り、碑を建つ以て不朽に伝えんと云う。 明治二十六年五月】

 その篠山十兵衛景義は大坂代官として在任した期間は、寛政五年七月から文化六年(一八〇九)三月に至る十六年間である。その支配地は、摂津、河内、播磨三ヵ国の内二百四十村におよぶ、かなり広い範囲の民政を担当していた。正徳四年(一七一四)摂津国西成郡難波村(大阪市浪速区、南区)の村民が、青物の百姓市の公認を願い出た。天満市場から離れた難波村の村民が、一々青物を天満まで搬出して売りさばかねばならなかった。農事にも差し支え、時間や労力もきわめて無駄なことでもあった。そこで、青物類は村方商人を通じて、ひそかに売りさばかれていた。この公然の秘密とも思われる事柄を、幕府に公認してもらいたいという南部の青物生産地の村民の声を、天満の独占的市場の存在が支配地の農民を困窮させているという事実を、篠山十兵衛景義は、もはや見のがすことができなかった。天満市場側もしだいに折れて、示談が成立し、大根・菜類・茄子・ねぶか・人参・冬瓜・白瓜・南瓜・西瓜・若ごぼう・わけぎ・芋類・かぶらの十三品が一荷としては不足した場合、その半端の分を立売り、つまり店を構えず売ることが認められたのである。このとき篠山代官は感謝され、生祀として奉祭祀されたということである。さらに文化七年(一八一〇木津村(浪速区敷津東2丁目)においても、村民が自作した青物を、直売したいことを、天満市場に申し出て、難波村と同一条件で、承認されている。

 そして、明治元年、青物は十三品以外のものでも天満市場の立売場外で自由に直売買がおこなわれるようになった。篠山代官の理解ある行為が難波や木津の発展に大きく結実したのである。かつての難波市場の延長ともいえる木津市場は、昭和十三年に大阪市の卸売市場として、発展することになったのである。大坂西成代官とて十六年間在任したのち文化六年(一八〇九)四月、江戸近郊地廻り代官、翌七月一日には、勘定吟味役に昇進。同年三月、浦賀および安房・上総国の海岸の御備場の見分御用、文化十年日光東照宮の修復、文化十二年日光山の家康の二百年忌法会御用などを務めたのち同十三年(一八一六)十月八日に佐渡奉行に就任、わずか十ヶ月で翌文政元年八月二十三日、佐渡国相川の屋敷において病死した。享年六十三歳であった。尚十兵衛景義は九代目、現当主は十五代目となり神奈川県在住。

 毎年九月二十六日に摂社篠山神社例祭が行われています。


【篠山神社】